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同じ道化なら、踊らにゃ損々。

「音楽に合わせて踊り狂うなんて、恥ずかしくてやってられない。」


確かにそうかもしれない。自分も以前はそうだったし、今でもそうである。だが、ある瞬間から、「同じ道化なら、踊らにゃ損々」という心境になってくる。そしてその気持ちに素直に従って一度踊り狂ってみると、恥ずかしい気持ちを超えた快感にどうしようもなくなってくるのである。


そもそも音楽とダンスは元をたどればほぼ同時に生まれたと言ってもいい関係にあり、多くの民族音楽に太鼓などの打楽器が欠かせない存在なのも、リズムが非常に重要である、すなわち踊ることが前提にあるからだと考えられる。そして、太古の昔に奏でられた音楽は、その多くが何らかの儀式に用いられたのではないかというのもそれほど珍しい仮説でもないと思う。つまり、音楽に合わせて踊ること、すなわち儀式であり、自分の身体性を超えてなにか神聖なものとつながった状態へと身を置くことになるのである。


現代の音楽に目を向けてみよう。
最近では「踊れるジャズ」というキャッチコピーもしばしば目にするが、元をたどればジャズはエンターテインメントの一つとして聴衆が踊るために演奏された、文字通りダンスミュージックであり、“ジャズを踊れなくした”ビ・バップが登場する以前は「スウィング・ミュージック」等と呼ばれたりもしていた。「スウィング」という単語が身体の動きを表している、すなわち踊りを意識した呼称であることは容易に理解できよう。


さらに時代をさかのぼってクラシックを見てみれば、ワルツをはじめメヌエットだとかガボットだとかポルカボレロとダンスミュージックには事欠かない。


そして今、世間に流れているほぼすべてのポップミュージックは、ある単位時間(たとえば1小節)を分割/統合するという、アフリカ/ヨーロッパのリズム構造を持っており、つまり世間に流れているほぼすべてのポップミュージックはそのリズムさえつかんでしまえば(たとえポリリズム変拍子であっても)ダンスミュージックたりえるのである。


「でも踊り方がわからない」と、そんな声も聞こえてきそうだ。
もちろん、EXILEのように踊れたらかっこいいに違いない。自分も一時期は目の敵にしていたダンスサークルを、今ではある種の羨望を持って振り返りつつ、基礎の一つや二つでも学んでおけばよかったと思わないではない。ただ、ステージの上に立っているわけでもない自分をいったい自分以外に誰が見ているというのか。心地よくグルーヴに身をゆだねられさえすれば、ぎこちないステップでもちろん構わないし、ただ飛び跳ねているだけでもいいのである。
大事なのは、流れる音楽、特にリズムにシンクロすること、そして躊躇しないこと。実際のところ、これは努力してすることでもない。なにかの瞬間にふっと入るものである。いわゆるゾーンというものであろうか、あるいは憑依であるかもしれないが、この領域を覗いてみたい場合は、お酒などの力を利用するのも一つの手段ではあると思う。


では、本当にバカになって踊り狂えたとして、それはどの程度の快楽なのか。これには環境や周りの同胞たちのトランス具合にも依存するが、聞くところによれば、それはストレス解消という生活の領域を超えて、精神の治癒とでも言うべきオカルトの域に達するのだそうであるが、上にも述べたように、これはダンスというものが持つ儀式性に由来すると考えられる。
さらに、この治癒の領域は、身体的疲労が大きいほど行きやすいのではないか、つまり身体的限界スレスレもしくはそれを超えて踊り狂うほどに神に近づけるのである、というのが仮説であるが、


まあ結局のところ、とにかくひたすら大音量の好きな音楽に合わせて周りの目も気にせず飛び跳ねるのは楽しい、ということです。


おしまい



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